インスピレーション

ユリの歴史 ◆ 第5回 ギリシャ
聖なるしずくから生まれたユリの物語

神話の中には、愛や嫉妬、偽りに満ちた物語がたくさん存在しています。
そんな情念うずまく物語にあって、ユリは唐突に命を与えられたかのようです。
古代ギリシア人は、花の中の花であるユリの誕生を悲劇的なできごとの象徴とみていたのかもしれません。

色とりどりの花をまとめて花束にするのは簡単なことです。
しかし、それらの花がギリシアの若者の死から生まれたと考えられていたとしたらどうでしょうか。
ヒアシンス、スイセン、アネモネ、バラ、それらのどれもが死すべき運命の人間と天上の女神との恋愛から生まれました。
しかも、それらのお話は、すべて若者の死で終わっているのです。

妖精エコーの恋する思いを受け入れなかった罰として、ナルキッソスは湖に映る自分自身に恋をし、ついにはやつれ果てて死んでしまいます。
神は彼の身体を花に変えました。その花は今でも水辺にうつむくように咲いています。

ヒュアキントスは、嫉妬にたぎる競争の悲しい犠牲となります。
それは、アポロと西風によるこの美少年をめぐって起きた事件でした。
あるときアポロがヒュアキントスに円盤の投げ方を教えようとしていたときに、西風は嫉妬し、円盤がその美しい若者に当たりその身を切り裂くようにしむけたのです。
ヒュアキントスの砕けた体からアポロは花を咲かせました。
アポロの悲しみの涙が花びらに落ちたとき、ギリシア語のAIAI(ああ!)という文字がそこに現れます。失った人への永遠の嘆きを焼きつけたのです。

最後に、アドニスのお話をしましょう。
アドニスは、彼の不死の恋人で美と愛の女神アフロディーテの忠告を聞かずに、禁じられたイノシシ狩りに行ってしまいます。
そこに一匹の野生のイノシシが現われ、牙で彼を突きます。
アフロディーテは、彼の死に至る最期の叫びを聞き、急いで地上へ降りました。
刺だらけのイバラの道に分け入り恋人を探しまわります。
イバラのなかで彼女の不死の皮膚は傷だらけになりました。
女神の血のしずくが落ちたところからは、バラが芽を出しました。
彼女は、倒れたアドニスを見つけ、流れる血から深紅のアネモネを咲かせました。
その名前はギリシア語の「風」を意味するアネモスからきていて、風はこの花の種を人の一生のようにあっという間に運び去るのです。

図像 ヘラクレスが生まれてのち、神なる父は、彼を不死の身とするためにあらゆることをやった

有名なギリシアのことわざのように「神に愛されし者は若くして死ぬ」ことになりました。
しかし、ここに美しい若者の死から生まれたのではなく、最後には不死を勝ち取るギリシアの英雄から生まれた花があります。
彼は今でも父ゼウスの黄金の家に住み、女神である妻のヘーベと並んで座っています。
へ―べは、意地悪な義母ヘラの娘で、永遠の若さを持つ女神です。
この不死の若者の名はヘラクレスといい、ローマ人はHerculesハーキュリーズと呼びました。
ヘラクレスにとって、不死は、ゆりかごにいたころからずっと与えられてきた運命でした。しかし、彼が実際に不死を獲得するまでには多くの苦しみに耐えなければなりませんでした。神の父はヘラクレスが生まれた時から不死にするためのあらゆることを試みました。しかし、父親の妻で、天の女王であるヘラは、夫と他の女性の間に生まれた子である彼を執念深い嫉妬で苦しめ続けました。天のゼウスとヘラの不幸な結婚は、ヘラクレスの地上での人生にとって大きな悲劇の原因になりました。

ゼウスの息子たちにとってはよくあてはまる運命なのですが、死すべき人間の女性との子どもであるヘラクレスは不釣り合いな関係による命であり、もともと彼は死すべき定めでした。ヘラクレスの母はアルクメネで、テーベ王アンフィトリオンの妻です。アルクメネは、アンフィトリオンが近隣都市との戦争に出かけている留守中にヘラクレスを身籠りました。アンフィトリオンもアルクメネも、英雄ペルセウスの血筋の王族でした。

運命のめぐりあわせで、アルクメネはゼウスが交わった最後の人間の女性となります。
彼らの子どもは悪魔の力から神と人間を守るように運命づけられていました。
彼の後、ゼウスはより強いより素晴らしい英雄の息子を持つことはありませんでした。
ゼウスがアルクメネを奪ったのは、彼がそれまでいつも人間の女性に対するように動物的で無理矢理にではありませんでした。
ゼウスは夫のアンフィトリオンになりすまして近づきました。彼らは神の愛の長い夜を過ごしました。実際、人間の世界の3日におよびました。
ゼウスは夜を長引かせるためにしばらくの間、宇宙を止めさせたほどでした。
結局、神々と人間の父ゼウスは、自分にとって最後の人間の息子が人間を超えた力と善良さを持つことを確信したかったのです。

長い愛の夜から9ヶ月後、ゼウスは誇らしげに声高く、ペルセウス王家に次に生まれる子はその時代で最も強い人間になると宣言しました。何度も裏切られ、ますます嫉妬深く警戒していたヘラは、わなをしかけることを思いつき、思うが早く地上に降ります。ヘラはアルクメネの寝室のドアを開けるとその前であぐらをかいて座り込み、彼女の服をぎりぎりと締め上げ、両手もきつく縛りあげました。そうすることで彼女は、アルクメネの息子の誕生を遅らせました。
なぜこんなことをしたのかというと、ヘラは、出産の女神であるエイレイテュイアの力によって、ミケーネの支配者でペルセウス王家の一員でもあるステネロス王の息子を、7か月で誕生させる機会を待っていたのです。こうして先に生まれたエウリュステウスは、よわよわしい臆病な子どもと呼ばれ、アルクメネの息子の人生を困難なものにすることになります。アルクメネの息子は、ヘラに気に入られるように、「ヘラの栄光」という意味であるヘラクレスという名前を付けられました。

しかし、このようなご機嫌取りも全く効果がありませんでした。
ヘラクレスがまだ8か月の時、ヘラは彼を殺そうと2匹の毒蛇をゆりかごに送り込みました。
蛇はシューシューいいながらゆりかごに這って行きます。恐ろしい頭が寝ている子どもを攻撃しようと狙っている。そのとき、幼いヘラクレスは突然起き上がったかと思うと、小さい手で蛇をつかんで絞め殺し、少しの恐れも見せませんでした。ゆりかごの幼児であっても、すでにゼウスの息子は人間を超えた力を示したのです。
しかし、ヘラは彼の邪魔をすることをあきらめてはいませんでした。

図像 アルクメネは神ゼウスと交わった最後の地上の女性。その愛の交換は人の世の3日に及んだという

彼の天の父もだまっておとなしくしていたわけではありませんでした。
愛する息子が不死の身になるのを早めようと、ゼウスもたくらみをしかけます。
ゼウスは夢の神の助けを借りて、ヘラを深い眠りにつかせました。そして、ヘラクレスを地上のゆりかごから連れ出すと、注意深くヘラの脇に寝かせ、彼女の不死の母乳を飲ませました。

ところが、ヘラクレスが彼女の乳首を強く噛んだために、ヘラはすぐに夢から覚め、痛さのあまり、幼い子どもを投げ飛ばしました。しかし、彼女の乳はすでに溢れだしていて、知らないうちに女神の母乳は、広がりつつある宇宙に流れだし巨大な流れになっていきました。
天空にまき散らされたしずくは星になり、やがて天の川になります。そして地上に落ちたしずくはミルクのように白い花を咲かせ、私たちはそれをユリと呼ぶようになりました。

ユリの純粋さを快く思わない、ふしだらなアフロディーテは、その花の中央に男根のような雄しべをつけました。
その悪ふざけに人々が気付くと、オリンポスの神殿中に笑い声が響き渡りました。

ヘラが再び攻撃したのは、ヘラクレスが結婚して2人の子どもの父親になってすぐのことでした。
彼女はヘラクレスを狂わせ、子どもたちを殺させたのです。
ヘラクレスは罪を償おうと、彼のライバル、ミケーネ王エウリュステウスに使えることになりました。
ヘラクレスが虚弱なエウリュステウスの奴隷として、命を懸けた12の難行を成し遂げた後、神は彼に心から同情し天に昇ることを許しました。
やがて、ヘラは復讐心を捨て、華やかで美しい自分の娘ヘーベをヘラクレスに妻として与えました。
こうして、ついにヘラクレスは天上の不死の神となったのです。
そして、地上にはユリの花が咲き、ヘラクレスの歩んだ苦しい道のりを人々に思い起こさせています。